おそらく、記号論はテクスト分析への接近方法として最もよく知られており、この形式では、構造分析と関連して特徴付けられる。構造主義的な記号論的分析は(テクストまたは社会的実践としての)記号システムにおける成分単位と、それらの間の(対立、相互関係そして論理的関係といった)構造関係の同定を含む。
彼は、記号表現の間の差異から生じる意味を強調した;この差異には2種類ある。
範列的関係は記号表現、記号内容または両者のレベルで作用する(Saussure 1983, 121-124; Saussure 1974, 123-126; Silverman 1983, 10; Harris 1987, 124)。範列は、関連する記号表現や記号内容の集合であり、ある定義された分野の全てのメンバーであるが、それぞれは明確に異なる。自然言語では、動詞や名詞といった文法的な範列がある。‘範列的関係は、共有する機能の力によって同じ集合に属する記号である...。ある記号は、同じ文脈では起りうるが、同時には起りえない全ての記号とともに範列的関係に入る’(Langholz Leymore 1975, 8)。与えられた文脈で、範列のメンバーは他の記号で構造的に置換できる。‘ある記号を選択したことがもう一つの記号を排除したことになると、それらは範列的関係にある’(Silverman & Torode 1980, 255)。同一の範列(例えば、形容詞や帽子)からある記号表現(例えば、ある特定の言葉や服装)を使用することは、あるテクストが優先されたという意味となる。このように、範列的関係は‘対照的’と見ることができる。明らかに同義語に属する複数の記号表現のあいだでの、差異の意味作用はウォーフ(Whorf)流の言語理論の中心部であることに注意する必要がある。ソシュールの‘連合的関係’という考えは、‘範列的’関係によって、通常、意味されることよりは広くまた形式的なところが少ない。彼は‘心理的連合’に触れ、形式(例えば、同音字)または意味(例えば、同義語)における、認識された類似点を含めた。そのような類似性は多様であり、強いものからちょっとしたものまで分布している。そして、(共通的な接頭語や接尾語のような)単語の部分を指すかもしれない。彼はそのような連合に、際限(または共通的に同意された秩序)はないと言っている(Saussure 1983, 121-124; Saussure 1974, 123-126)。
映画やテレビでは、範列は(カット:場面の転換、フェード:溶明、溶暗、ワイプ:拭き消し、のような)画面(shot)の変換方法も含む。媒体や様式もまた範列であり、特定の媒体のテクストは、そこで用いられている媒体や様式が代替物と異なる様子から意味を引き出す。‘媒体(メディア)はメッセージである’と言ったマーシャル・マクルーハン(1911-80)の格言は、記号論的関心の反映と解することができる:記号論者にとっては、媒体は‘中立’ではない。
統語体は相互干渉する記号の、テクスト内で意味のある全体像を形成する順序正しい組み合わせである −時々、ソシュールに従って、‘連鎖(chain)’と呼ばれる。そのような組み合わせは、(明示的および非明示的の両方の)文法規則と習慣の枠内で作られる。たとえば、言語においては、文は単語の統語体である;節や章も同様である。‘常に小さな単位から構成される大きな単位があり、両者の間には相互依存の関係が成り立つ’(Saussure 1983, 127; Saussure 1974, 128);統語体は、他の統語体を含む。印刷された広告は、目に見える記号表現の統語体である。統語的関係は、おなじテクスト内の要素が他の要素と関連付けられる種々の方法である。慣習的に適当と認められるか、(例えば、文法のような)ある規則によって必要とされるという基礎の上で選ばれた範列の集合から、記号表現を結びつけることにより統語体が生成される。統語的関係は、部分−全体の関係の重要性を際立たせる:ソシュールは‘全体は部分に、部分は全体に依存する’と強調している(Saussure 1983, 126; Saussure 1974, 128)。
統語体はしばしば‘順序的’として定義される(そして −話や音楽のように− 時間的なものでもある)が、空間的関係も表現できる。(‘一つずつ提示され’そして‘連鎖を形成する’‘耳で聞く記号表現’を強調した)ソシュール自身、目で見える記号表現(彼は船舶旗の例を挙げていた)は‘1次元以上のものを同時に活用できる’と記している(Saussure 1983, 70; Saussure 1974, 70)。空間的な統語関係は、絵画、油絵や写真の中に見出される。 −ドラマ、映画、テレビやワールド・ワイド・ウェブのような− 多くの記号システムは空間的、時間的統語体を含む。
Twaites他は、ある範疇(genre)のうちでは、統語的次元はテクストの構造であり、範列的次元は主題の選択と同じくらい広範である、と主張している(Thwaites et al. 1994, 95)。この枠組みでは、形式は統語的次元であり、一方、内容は範列的次元である。しかし、形式はまた範列的選択の支配を受け、内容は統語的配置の支配を受ける。
Jonathan Cullerは、西欧料理のメニューに含まれる統語的関係と範列的対照の例を提出している:
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ロラン・バルト(1967)は‘衣服システム’の範列と統語的要素の輪郭を、同様の用語で描いた。範列的要素は、身体の同じ部分では(例えば、上半身)同じ時間に一つのものしかを着られない(帽子やズボンや靴のような)項目である。統語的次元は同時刻での異なる要素の並置であり、帽子から靴までの完全な調和を成す。 |
David Lodgeによって提出された例を拡張し、Susan Spiggleは範列と統語体が、ティーシャツとジーンズを着てサンダルを履いた女の子にどうやって適用できるかを説明している:
映画の場合、個々の画面(shot)についての理解は(必ずしも意識的でないが、別の種類の画面を使うこととそれを比較する)範列分析と(前の画面や後ろの画面とそれを較べる)統語分析に依存する。同じ画面でも他の流れの中で用いられると、かなりちがうように解釈される。実際には、映画的統語体はそのような(モンタージュに表れる:つまり画面の順序である)時間的な統語体に制限されず、(舞台装置における)スチール写真(個々のフレームの合成)に見られるように空間的な統語体を含む。
統語的分析も範列的分析も、記号をシステムの部分として扱う −(後で触れることになる)コードと副コードの範囲で記号の機能を探求する。我々は統語的関係と範列的関係を別々に扱っているが、テクストや資料の分析は全体としてのシステムに挑まなければならないこと、また二つの次元は隔離して考えることはできないことは強調されるべきである。どの記号システムでも、それを記述することは関係する範列的集合と、明確に定義された統合体でのある集合と他の集合との可能な組み合わせを規定することを含む。分析者にとっては、(言語システムを全体として捉えようとしていた)ソシュールによれば、‘統合された全体としてのシステムが出発点であり、分析の過程で、構成要素を識別することが可能となる’;構成要素から上位に向かって解析を進めたのでは、システムを構築できない(Saussure 1983, 112; Saussure 1974, 113)。しかし、ロラン・バルトは次のように主張している。‘記号学的な企ての重要な役割’は、テクストを‘最小の意味のある単位に分割し...それからそれらの単位を範列的なクラスにグループ化し、最後はこれらの単位を結びつける統語的関係に分類することにある’ (Barthes 1967, 48; Langholz Leymore 1975, 21 と Levi−Strauss 1972, 211を参照のこと)。実際には、分析者は分析が進むにつれ、これらトップダウンとボトムアップという二つの方法の間を行きつ、戻りつする。