記号化(エンコーディング)/記号の解読(デコーディング)
(Encoding/Decoding) 構造主義記号学者は、テクストの制作や解釈の過程よりも、その内部構造を重視する傾向にある。その伝統に沿って仕事をする人たちがテクストの範囲を越えた学説を主張した場合、コミュニケーション(マスコミ、大衆伝達)は、実在が構築、保全され、それにより不平等、支配そして追従が社会の中で生産また再生産され、同時にそれが‘当たり前のこと(natural)’に見えるようにする主要な過程である、と主張する傾向にある。‘新批評派(New Critics)’、W K WimsattとM C Beardsleyは構造主義者ではないが、意味はテクストの内部にある、という 形式主義者の主張を一歩進め、‘感情移入(affective fallacy)’として、、詩の意味は読者の‘主観的’反応に依存すると言う考えを規定し、彼らはそれを‘詩とその結論(それが何であり、それがなにをしたか)の間の混乱’であると見ていた(Wimsatt & Beardsley 1954, 21)。そのような考えは、‘テクスト決定主義’に向かいがちで、テクストはいつも作者が意図したように読まれると仮定し、テクストの内部やテクスト間にある矛盾や、テクストを解釈する人の間にもバラツキがあるということを余り考慮していない。この種の一本調子の理論は、ソシュールが‘社会的生活の一部としての記号の役割’と呼んでいるものを、無視しているこになる(Saussure 1983, 15; Saussure 1974, 16)。
現代の記号学者は、テクストの制作と解釈を、それぞれ‘エンコーディング’と‘デコーディング’と呼ぶ。不幸にも、これはあまりにもプログラム的に聞こえる傾向がある:もちろん、この用語を使うことは、そこに含まれる記号的なコードの重要性また社会的な要因を強調しようとするものである。記号学者にとって、記号化されないメッセージといったものはないし、 −全ての経験は記号化されていると主張する人たちにとっては− ‘エンコーディング’はもっと正確には‘リコーディング(再記号化)’とさえ、言えるかもしれない (Hawkes 1977, 104, 106, 107)。記号論という文脈では、‘デコーディング’は、テクストが何を言っているかの単純で基本的な認識と理解(comprehension)とともに、適切なコードを参照しての、その意味の解釈(interpretation)と評価(evaluation)を含むことになる。理解(comprehension)と解釈(interpretation)の区分がなされた場合、それは主として純粋に言語的なテクストを参照してなされることになるが、しかし、この文脈でさえ、この区分は支持できない:‘意味される’ことは、必ず‘言われている’こと以上である(Smith 1988, Olson 1994)。コミュニケーションという言葉から、普通思い浮かべるのは、‘伝達’モデルであり、そこでは送信者が、受信者にメッセージを伝達している −その方式では、意味を、小包のように配達される‘内容’に変えている(Reddy 1979)。これが、よく知られたシャノンとウエーバーのコミュニケーション・モデルの基本であり、そこでは会的文脈やコードの重要性は考慮していない(Shannon and Weaver 1949)。
ヤコブソンは、‘これら6個の要因が、言語の色々な機能を決定する’ことを提示した (ibid.);
このモデルは、言語を‘コミュニケーション’に還元するのを避けている。関連する内容が、いつも前に出てくるとは限らない。ヤコブソンは、どんな状況でも、これらの要因の一つが支配的となり、この支配的な機能が‘メッセージ’の一般的な性質に影響を与える、と主張している。例えば、詩的機能(それは、単に詩を指すというより、言葉の創造的使い方を指すという意図がある)は、‘記号に接触できること(the palpability of signs)’に焦点をあて、記号表現と記号内容の間にある‘自然な’または‘透明な’結び付きの場面を突き崩していく。ヤコブソンのモデルは、メッセージと意味を、それを構成する文脈的な要因から隔離することは出来ない、ということを示している。社会的機能を容認すると、主体(ここでは、それは‘発信者’と‘受信者’の形をとる)は談話を介して構築されるという構造主義理論と同じになる。
ホールは、コミュニケーションのエンコーディング/コーディングの諸相をモーメント(moments)と呼んだが、その後、その用語は多くの評論家が(しばしば、説明しないで)用いている。John Cornerは、彼自身の定義を提示している:
マスメディアのコードは、その読者に社会的同一性(アイデンティティ)を提示し、ある人はそれを彼ら自身のものとして取り入れる。しかし、読者がそのようなコードを受け入れるとは限らない。コミュニケーションに加わっている人が、共通的なコードと社会的地位を共有しない場合には、デコーディングは、エンコードした人の意図した意味とは違ってくるだろう。ウンベルト・エーコは、テクストがエンコードするために使われたのと違ったコードを用いてデコーディングされた時、それに‘変異的なデコーディング(aberrant decoding)’という用語を用いた(Eco 1965)。 エーコは、特定の解釈を促すような傾向が強いテクストを −‘より開いている’テクストと対比で− ‘閉じている’と呼んだ(Eco 1981)。彼は、マス・メディアのテクストは‘閉じたテクスト’の傾向があり、そしてそれらが異質な視聴者に放送されるので、そのようなテクストのデコーディングがバラバラになるのは避けられない、と主張している。
スチュアート・ホールは、マス・メディアのテクストを異なる社会グループが解釈する際、社会的地位の役割が重要になるとを強調した。Frank Parkinの‘意味システム’から導いたモデルで、ホールは、テクストの読者のための三つの仮説の解釈コードまたは地位を示唆している(Parkin 1972; Hall 1973; Hall 1980, 136-8; Morley 1980, 20-21, 134-7; Morley 1981b, 51; Morley 1983, 109-10):
この枠組は、テクストの潜在的な意味は支配的なコードで記号化つまりエンコードされるという仮定に基づいている。これは、媒体を具体的なものと見なし、テクストの中の相容れない傾向を軽視する立場である。しかし、何人かの批評家は、‘優先される読み方’はどうやって確立するのだろうかと疑問視している。Shaun Mooresは、‘それはどこにあり、もし見つけたとしてもどうやって知るのだろう? 見ている間、自分自身でそれをそこに置かなかったと確信できるだろうか? そして、それはある種のテクストを検証することにより、見出せるのだろうか’、と問いかけている。 (Moores 1993, 28)。何人かの研究者は、その概念はニュースやその時の出来事に、他のマス・メディアの範疇より容易に適用できるのではないかと感じている。David Morleyは、それは‘多くの読者が生み出すと、分析者が予測している読み方’なのだろうか、と疑問を呈している。 (Morley 1981a, 6)。John Cornerは、複数の読み方の中から、ある一つの読み方が優先されているという、メディアのテクストの例を見つけるのは難しい、と主張している。 (Corner 1983, 279)。Justin Wren-Lewisが述べているように、‘多くの読解者(デコーダー)が同じ読み方に出会うということと、その意味することがテクストの本質的な部分であるということは同じではない’(Wren-Lewis 1983, 184)。そして、Kathy Myersが記しているように、ポスト構造主義の社会記号論者の考えでは、テクストの‘構造と形式だけで、優先される読み方を決めようとするのは、誤った方向に導きかねない’(Myers 1983, 216)。さらに、広告という文脈で、彼女は次にように付け加えている:
ホールのモデルという還元的な読み方は、媒体または範疇の具体化に行き勝ちであるのと同時に、読者(例えば、‘抵抗的読者’を)を抽出する(essentialise)のを助長する。というのは、読む立場は、‘多様で、裂け目があり、精神分裂的で、不均一に展開し、文化的であり、漫然とかつ政治的に不連続で、差異や矛盾を分岐するという変位する現実の部分を形作るのに関係している’からである(Stam 2000, 233)。
色々な批判があるが、ホールのモデルは大きな影響力を、特に英国の研究者の間で有している。David Morleyは、異なる社会グループがテレビ番組をどのように理解するか、という研究にそれを用いた(Morley 1980)。Morleyは、社会決定主義の立場は取らないと主張しているが、その社会決定主義では、テクストの個々の‘デコーディング’は社会的な階級の直接的な帰結であるとする。‘社会的位置は特定の談話を介して分節されるので、それが、特定の読み方やデコーディングをどうやって生成するのかは、常に問題になるところである。これらの読み方は、異なる談話への接近の構造が社会的地位により決定される方法によって、型どられると解すことができる’(Morley 1983, 113; cf. Morley 1992, 89-90)。Morleyの、談話に対する異なる接近方法に関する要点は、Pierre Bourdieuによりその概要が示された種々の‘資本’ −特に‘文化的資本’(Bourdieuは、それを‘好み’の構築と関連付けている)と‘象徴的資本(symbolic capital)(打ち解けたレパートリー’− と関連付けることができる。‘解釈のレパートリー’は(Jonathan Potter, cited in Grayson 1998, 40) 、関係する‘解釈の共同体’の成員の資産の役割を果たし、そして彼らにとって有効なテクスト的また解釈のコードを構成する(コードはそのコードを用いているテクストを理解したり、また時にはそれを作り出すための可能性(potential)を提示する)。Morleyは、次のように加えている。個人やグループは全て、異なる トピックスや異なる 文脈に出会うと、異なるデコーディング戦略を働かせる。同じ人でも、同じ材料に対して、ある文脈では ‘反対の’読み方をしたり、‘支配的な’読み方をするかもしれない(Morley 1981a, 9; Morley 1981b, 66, 67; Morley 1992, 135)。彼は、次のように述べている。マスメディアのテクストの読み方を理解しようとする時には、同意(受容/拒否)ということだけでなく、包含(comprehension)や関連や楽しみにも、注意を向けるべきである(Morley 1981a, 10; Morley 1992, 126-7, 136)。
*記号の使用者による記号の理解は、記号論的視点からは、次の3段階に分けられる(大まかではあるが、それはC.W.モーリス記号分類の枠組と関連付けられる):
理解という最も基本的な作業には、記号が表現するのは何かつまり(指示義) をはっきりさせるころが含まれ、またその媒体やそこに含まれている表現コードについてある程度知っていること、が必要になるかもしれない。これは、特に言語の場合、顕著であるが、写真や映画のような視覚的媒体にも適用できる。ある人たちは、この低レベルの過程を、‘理解’のレベルとは全く認めず、この用語を物語のテクストから‘教訓’を引き出す過程に限定しようとする。しかし、David MickとLaura Politiは、理解(comprehension)と解釈(interpretation)は不可分であり、それは指示義と共示義の関係に似ているという立場をとっている(Mick & Politi 1989, 85)。
Justin Wren-Lewisは、次のようにコメントしている。映画やテレビの分析のために記号学的道具を用いた素材はたくさんあるが、デコーディングの実践についての研究は驚くほど少ない’(Wren-Lewis 1983, 195)。社会的記号論は、社会における記号論的実践を主張するが、この分野の研究は、民俗誌学的また現象学的方法論が主流であり、記号論的視点と密接に関連したものは、めったにない(しかし、必ずしも両立しないということではない)。広告の分野におけるDavid Mickの研究は、著しく例外的なものである(Mick & Politi 1989, McQuarrie & Mick 1992, Mick & Buhl 1992)。
会話によるコミュニケーションについてのソシュールのモデルは、(その時代では)革新的なものであり、‘談話の循環(speech circuit)’と名付けられている。そこには、会話へは両方が参加していることを示唆する矢印が含まれている(これは‘フィードバック’を暗示している)が、それでも線形伝達モデルであった(一つの‘2経路’モデルであるが)。それは、聞き手の側の理解は、話し手の考えを表すという最初の課程の鏡の一種である、という見解に基づいている(Saussure 1983, 11-13; Saussure 1974, 11-13; Harris 1987, 22-25, 204-218)。このモデルでは、話し手が‘言語によって用意されているコード’を使っており、それは固定されているコードを共有していることである、ということについては、ほんのわずかしか言及してない。Saussure 1983, 14; Saussure 1974, 14; Harris 1987, 216, 230).
1960年にもう一人の構造主義言語学者 −ローマン・ヤコブソン(1930年代からのBulerの著作によれば)− は個人の間での話し言葉によるコミュニケーションに関するモデルを提示したが、それはコミュニケーションに関する伝達モデルより進んだものであり、コードや社会的文脈の重要性に焦点をあてたものだった (Jakobson 1960)。彼は、他のところで、‘話すことの効率が、その参加者が共通したコードを使うことを要求することになる’と記している(Jakobson & Halle 1956, 72)。彼は、話し言葉によるコミュニケーションのどんな行為においても、‘構成因子’と認められるものを6個挙げている:
発信者(addresser)は受信者(addressee)にメッセージを送る。それが実効あるものとなるためには、メッセージは参照され、受信者によって把握でき、そして言葉の、または言葉にできる文脈(context)(他の言葉では‘指示対象’、多少相反しているが術語集)、発信者と受信者(または、メッセージの作成者と解読者)の間で十分また少なくとも部分的には共通しているコード(code) ;そして、最後は、接触(contact)、それは発信者と受信者の物理的経路や心理的接続であり、両者がコミュニケーションの中に存在することを可能とする。(Jakobson 1960, 353)
Type
型
Oriented towards
指向するもの
Function
機能
Example
例
referential
参照用の
context
文脈
imparting information
お知らせ
It's raining.
雨です
expressive
表現に富んだ
addresser
発信者
expressing feelings or attitudes
感覚や姿勢を表現する
It's bloody pissing down again!
また、土砂降りだ
conative
共示的
addressee
受信者
influencing behaviour
影響を及ぼす行動
Wait here till it stops raining!
雨が止むまで、ここで待ちなさい
phatic
会話的
contact
接触
establishing or maintaining social
relationships
社会的関係を確立または維持する
Nasty weather again, isn't it?
また、ひどい天気ですね
metalingual
メタ言語的
code
コード
referring to the nature of the
interaction (e.g. genre)
相互作用の種類を指す
This is the weather forecast.
天気予報です
poetic
詩的
message
メッセージ
foregrounding textual features
テクストの特徴を目立つようにする
It droppeth as the gentle rain from
heaven.
天国からの穏やかな雨のように落ちている
これらの初期のモデルは‘個人間のコミュニケーション’に関連していたが、‘エンコーディング/デコーディング(Encoding/Decoding)’という随筆で、イギリスの社会学者スチュアート・ホールは、関連したコードの下での能動的な解釈の重要性に重点をあてたマス・コミュニケーションのモデルを提示した(Hall 1980、その随筆はについては最初、‘テレビの談話におけるエンコーディング/デコーディング(Encoding and Decoding in Television Discourse' in 1973)’として出版されていた)。Justin Wren-Lewisは、ホールのモデルは、意味過程としてのエンコーディングとデコーディングに重点を置いており、‘すぐれて、記号論的概念’である、と主張している(Wren-Lewis 1983, 179)。ホールは、テクスト決定主義を受け入れることを拒否し、‘デコーディングは、エンコーディングから必然的に生じるのではない’と述べている(Hall 1980, 136)。それ以前のモデルに較べて、ホールは‘記号作成者(エンコーダー)’と同様に、‘記号解読者(デコーダー)’にも、重要な役割を認めている。
ホール自身は、‘コミュニケーションの回路’(その用語は明らかに、ソシュールからの伝承を示している)の部品として、幾つかの‘結ばれてはいるが区分できるモーメント−生産、循環、配布/消費、再生産’を挙げていた。(Hall 1980, 128) 。Cornerは、エンコーディングのモーメントとデコーディングのそれは‘多かれ少なかれ、互いの関係により並べ替えられまた社会的に並べ替えられた実践であり、意味を排除した媒介物の‘メッセージ’という郵送手段によって結ばれた‘送ること’と‘受けること’とは考えられないのは明らかである’と加えている(Corner 1983, pp. 267-8)。
広告の分析では、広告からのメッセージの‘優先された’読み方を創造するのは広告作成者の意図にある、と仮定する危険が潜んでいる。テクストとイメージの意識的な操作と組織化は、意図的に次のことを示唆し、また仄めかす。視覚的、技術的そして言語的戦略は、広告の一つの優先された読み方が他の読み方を確実に排除させるように働く。しかし、共示的なコードが開かれていることは、‘優先される読み方’という考えを、見る人に開かれている一群の他の読み方を認めるもう一つのものに置き換える必要があることを意味しているかもしれない。(Myers 1983, 214-16)
(また、次の文献を見よGoldsmith 1984, 124、ただ、彼女は別の区分をしている)